この間、ある方からあたたかい言葉を掛けてもらいました。いろんなことが報われる気持ちになり、とても励まされました。
その時に思いました。自分もまた、出来る範囲だけでもあたたかい言葉を遣っていける人でありたいと。言葉に関しては、このブログで何度も書いていますが、これからもやはり何度も書いていくのでしょう。
なぜなら、言葉こそがここから伝えていけるものであり、その力を信じているからです。
いまだに飽きもせずTwitterをやっておりますが、その中では、かなり醜悪な言葉が吐き出されていることもあります。見ず知らずの人に対して、いきなり罵倒したり、汚い言葉を投げつけている場面もあります。自分の心を守るために、目にしないように設定はしていますが、それでも時々、目にします。
そういう時には、言葉が剥き出しのナイフのようになっているのを、みんなが見ることが出来ればいいのにと思ったりします。ただの冗談だよとか、誰かがそれを真実だと言っていたからとか、言い訳をすることも多いようですが、言葉にして良いことといけないことの分別ができないのはどうしてなのでしょう。
あたたかい言葉を知らないのでしょうか。
言葉で救われたことがないのでしょうか。
言葉で傷つけられたことしかないのでしょうか。
そんな貧しい体験しかないのでしょうか。
それとも単に想像力が無いだけなのでしょうか。
ストレス発散しか考えられない幼稚さゆえなのでしょうか。
私が言葉フェチだからかもしれませんが、あたたかい言葉に救われ、優しい言葉に心慰められて生きてきたのでどうしてなのか考えています。なかなか答えは出ませんけれど。
だから出来ることと言えば、あたたかい言葉を遣っていける人でありたいと思うことだけです。時々は言葉も遣ってしまうでしょう。でも、誰かが向けてくれた優しさや思いやりを、
リレーのバトンのように、またどこか違う所へと送っていくために、自分もまたあたたかい言葉を遣っていけたらと思うのです。
小さいけれど、自分のいる場所からあたたかいものをひっそりと発していく。そうしていくことは、自分に出来ることだから。わたしに出来ることだから。あたたかい言葉を掛けてくださったあなた。ありがとうございます。
今日もまたお読みくださいましてありがとうございます。
たくさんの愛と感謝を。




